吉田知那美のコラム Vol.27

Yoshida Chinami Column

世代と時代の曖昧な話。

日本カーリング選手権2026が閉幕しました。今回優勝したのが男女ともにSC軽井沢でした。客観的に試合全体をみるとSC軽井沢男子、女子ともに、流れは完全に相手にあり、展開的には常にプレッシャーを受け続けていた試合でした。でも、我慢し続け、「いつか来る小さなチャンスを逃さない。」2チーム揃ってそのような戦いぶりは「SC軽井沢のカーリングスタイル」を感じさせるものでした。


今大会のメディアサイドの大きなでテーマは「世代交代」だったように感じます。どの新聞、どの記事にも必ず登場した「世代交代」という言葉。私は4年ほど前までこの言葉一つに大きなプレッシャーを感じていました。「世代交代」という言葉は常に、「それを望まれている」という対立構造を意図的に作られているように感じていたからです。


これはフランスの社会学者ピエール・ブルデューが提唱したシンボリック・バイオレンス(象徴的暴力)的な要素もあるのかなと思います。シンボリック・バイオレンスとは、支配的な立場にある者が「世代論」などのラベルを使うと、それを受け入れる側も「自分たちはそういう存在なんだ」と納得せざるを得なくなります。この、「支配する側が定義したカテゴリーを、被支配側が自明の真理として受け入れてしまうこと」をブルデューは象徴的暴力と呼んだのですが、暴力はだいぶ言い過ぎですし、メディアと選手に支配者と被支配者という構造は無いので定義として当てはまるわけでは無いのですが、雰囲気として、カーリング界での「世代交代」論争の中にいると、私は交代を望まれている世代なのか?と考えていた時期がありました。

「世代」という言葉に一種の「対立構造の助長」のようなものを感じていた一方で、「時代」という言葉には一種の「共同体意識」を感じていました。
今の日本のカーリング界を牽引するトップ選手には10代、20代、30代、40代と多くの「世代」の選手がいます。その全ての世代が一緒にプレーしているチームもいます。ひとつの世代のみがカーリング界の顔として牽引しているのではなく、その全ての世代が「カーリング新時代」を構成しているメンバーでもあります。時代を象徴する顔は1チームじゃないのです。常に新しい世代がトップカーリング界に参入し、共に日本カーリングを成長させる。「時代」として括る場合は一種の仲間になれるような気がしていました。ここまでが、私が選手として「世代交代」という言葉を投げかけられる側にいたときに考えていた頭の中のメモなのですが、実際「伝える側」として携わった今回の日本選手権で私がどんな言葉を選んで話したか。


使っていました、たくさん。ほとんど無意識に「世代」という言葉。


その言葉自体に悪さはないのですが、スポーツの世界で使われる時に含まれるその言葉の威力があります。ずっと「もっと他の言葉無いのかな」と思っていたのに。ただ今回、北海道新聞のインタビューの中で話した「世代は交代するものではない」という風に話したのは、何をもって交代なのかの定義が曖昧だからです。はっきりと30代、40代の選手たちが全員引退なんてしたらわかりやすく交代ですが。曖昧な中に私が思うのは「日本代表の顔」が変わる事を指すのかなと。しかしその顔はひとつではないかもしれないし、ひとつの「世代」に止まらないかもしれない。いつかは自然に移り変わる「時代の顔」。それが誰がどのように変えるのか、変わるのか。日本選手権を戦う選手であっても、日本選手権を伝える側であっても、私の中の大きなテーマ「世代と時代」。曖昧でぼんやりとしている私の頭の中の話。

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