吉田知那美のコラム Vol.30

Yoshida Chinami Column

常呂町の人の話

どうしても、頑張れそうになかった時がある。 2024年11月27日に父が亡くなり、12月1日にカナダから緊急帰国した。 実家に帰ったら、分かってはいたけれど、遺影となって笑ってる父の顔を見て 「ただいま」の前に「本当にごめんね」という気持ちが堰を切ったように溢れ 出した。オリンピック日本代表選考トライアルのための大事なシーズンだった が、全ての力が一気に抜けるような感覚だった。カーリングを頑張るために自 分でした決断で、父を看取ることができなかった。その後悔は自分一人で抱え られそうにない重さがあった。


父が亡くなり継承する人がいない吉田漁業は閉業した。まだ父が乗っていた船「開運丸」が築港にあるよと母が教えてくれたので、12月2日にランニングがてら見に行った。雪が少ない年だった。空気は冷たく澄んでいて走っていてとても気持ちよかった。でも足取りは軽いのに、親方を失った開運丸を見るともっと悲しくなってきそうで、港近くで足が止まってしまった。AirPodsをしながら走っていたのでノイズキャンセリングで周りの音は遮断されているはずなのに、遥向こうから人の声のようなものが聞こえた。それはやっぱり人の声だった。


AirPodsを外して声の方を振り向くと、20メートルくらい先に父の漁師仲間で、私の幼馴染のお父さんとお兄ちゃんが手を振って「知那美ーーーーーーーー!!!」と叫んでくれていた。私も「久しぶりーー!」と返事をした。


幼馴染のお父さんもお兄ちゃんも、私の返事を聞いた後、一瞬、なんて声をかけようかと悩んだような間をおいて、これまた大きな声で、「・・・・頑張れよーーーーーー!!!」と手を振ってくれた。


今日この日の頑張れほど、頑張らなきゃと思えた頑張れはない。もう、誰も頑張れなんて声をかけられない状況でもあったと思う。でも、「お前なら頑張れる」そう思ってくれたからかけてくれた言葉だったと思うし、歩き始めた頃から知っている常呂町の人にかけてもらった「頑張れ」は大きな力があった。どんなことがあっても、どんな状況でも、もう自分自身で立ち上がって頑張るしか事態を好転させられないことがある。思い返すと、私は今まで常呂町という大きな家族に「頑張れ」と何度も背中を押してもらって育った。この町に生んでくれて、育ててくれてありがとう、と両親に伝えたい。小さな時はこんな小さな町に生まれたら何にもなれない、なんの夢も叶わない。そう思っていた時もあるけれど、今は、ここに育ったことを、素敵な人に囲まれてたくさんの頑張れをもらって生きてこれたことに心から感謝している。

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