吉田知那美のコラム Vol.25

Yoshida Chinami Column

後悔の話

私はよく笑う方だと思う。よく笑うし、大体のことはなんとかなると思っているし、失敗 はものごとを成し遂げるためには必要なプロセスだと考える思考の癖もついているため、 そんなに長い時間クヨクヨしたりもしない。


でも、私にはトラウマになっている後悔がある。
トラウマとしてここに書けるくらいなので、その一番の山は越えて今は回復の段階にあると思う。一番辛かった時は、寝る事に支障をきたしていた。小さな頃からロングスリーパーなので上手く寝れない事は精神的に辛かったし疲れた。あとコーヒーをたくさん飲んでしまって少し痩せてしまっていた。「競技者なのに」という〝べき思考〟はかろうじて捨てれて、しょうがない、と納得して過ごしていた。今になって考えると、その時の私の心理状態は表面上は元気に生活できているけれど、寝つけないなどの身体的なエラーも出ていたので医療機関でのバイオロジカルなサポートやカウンセリングなどを受ける方法もあったかなと思ってる。それでもできることはした。一番効果を感じていたのはスポンサーであったnishikawaさんでいただいていた睡眠時用のアロマスプレー。こんな時でも少し気持ちが落ち着いてリラックスできた。が、遠征の途中で使い切ってしまった。


今は家族も驚くほどよく寝てる。正直、寝過ぎなくらい寝てる。朝起きたら夫はすでに朝風呂を入り、山菜を取りに行て、朝ごはんを食べて、ミーティングをひとつ終わらせてたりするくらい、今は寝てる。今も夢の中や、ぼーっとしている時にたまにフラッシュバックして、「あの時、その選択をしなかった世界線」に思考が飛んでいってしまうことがあるけど、ちゃんといっぱい寝てる。


このようにここに書く理由は、私自身のトラウマの回復のプロセスであると思う。加えて、スポーツの世界ではこの手の話はある種「美談」として書かれることも多い。だから私は、私の実体験として誇張も加工もない「美しくない現実の後悔」をここにひっそりと残し、いつか誰かが同じ後悔を背負った時の回復のプロセスの参考となればと思ってここに書くことにした。私がたくさんの本や言葉によって救われて生きてきたように、状況的に人に頼りにくい立場の人や、頼る勇気が出ない人は、先人が残した本や言葉に助けを求める人もいると思うから。
(と、書きながら寄稿するかを現時点ではまだ迷っている。)


私の後悔とは、私の父との話。私はここで何度も何度も父の話を書いている。無意識だったけれど、こうやって心の回復をはかろうとしているんだと最近気がついた。


2024年5月、父は病に倒れた。あまりに突然のことで、誰ひとりとして心の準備もできないままに余命宣告を受けた。父の体は、脳の癌でもただの癌ではない希少癌に一気に襲われて一気に容態は悪くなった。10万人あたり5人ほどの発症率の癌が父を襲った。ただの父じゃない、大好きな父を襲った。
専門医のいる旭川医大に転院になった。セカンドオピニオンの先生も「その先生に診てもらえるなら、それ以上の最善はないと思います」と言われる先性に、「治療をしても2025年を迎えられるかどうかわからい。」そう告げられた。


6月11日、父の手術の前日も私は面会に行って父と話をしていた。
「ちちともっと話したいことがある。今、もっと話さなかったこと後悔してるから手術終わったら話そう。」と言ったら父は、「そうなの??笑」と笑ってくれた。でも面会終了時間が近づくと、「明日は来れるか?手術の前に来れるか?」と父は私に聞いた。
私は「手術の前は会えないと言われたけど、終わる頃に全員で待ってるからね。なっちゃんもゆりも雄太も濱ちゃんも明日は来るから」と伝えると、少し寂しそうな不安そうな声で「そうか」と父は言った。


父と話ができたのは、それが最後になった。


父は術後、私たちの声に反応して目線を送ってくれたり、手を強く握って反応してくれたり、涙を流したり、病室に持参した出来上がったばかりのゆりの結婚写真を掴んで持ってくれたり。話せないけど私たちの存在はわかってくれているようだったので、たくさん話をしたり、大好きだった音楽を聴かせたり、コーヒーの匂いを楽しめるようにコーヒー豆を挽いて持って行ったりした。


そして私には、自分自身で決断しなければいけないことのタイムリミットがあった。
それは、このミラノコルティナオリンピックトライアル直前のこのシーズン、海外遠征に行くか、それとも父に残された時間を一緒に過ごすか。人生で2度としたくない最悪の選択をしなければいけなかった。ゆりとは相談しなかった。ひとりひとり、考えて、自分自身で決断しなければいけないことだと思ったから。


父は11月27日、カナダ ハリファックスで開催されたグランドスラムの最中、現地時間夜中の1時頃に亡くなった。一睡もできずに戦ったチームティリンゾーニとの試合は、できるだけ笑ってプレーした。「後悔」が体中から溢れ出すのを堰き止めるように笑ってプレーした。そして結果は実力通り負けた。奇跡とか起きない現実の結果を受け止め、最後まで戦って急いで帰国した。


「遠征に行かない決断をしたとしても、同じように後悔したと思うよ。」周りの方々にそう言われたけれど、それは私ももう初めから分かりきったことで、私にとっての論点はそこじゃなかった。
私は大好きだったおばあちゃんが亡くなった時も北海道ジュニアカーリング選手権大会を戦っていて看取ることができなかった。悲しかった。今回、父を看取れないかもしれないことは自分で選択したことだった。誰にも責任はなく、まったくもって誰のせいでもない。自分で選択したことならばきっと後悔は少ない。そう覚悟してもこんなに後悔するという事実が私の人生で初めての経験だった。
さまざまなことを考えるきっかけとなった。


年を重ねるごとに、家族との死別に対する考えは変わってくるとも思う。でも、34歳現在、私は家族と何かを天秤にかける必要性を限りなく少なくすることは、私自身がそう人生の舵をきればできると考えている。「父のそばにいる選択をしなかった自分」を背負って生きるような後悔を、今後の人生で何度も経験しないように。今はまだ「みんな経験することだよ」「どっちを選んでも後悔するよ」「しょうがないことだよ」「それが寿命だったんだよ」といった、家族との死別経験者の皆さんの言葉に、優しさは感じながらも私の感情や父との思い出を「そんなこと」と言われているように感じてしまうこともある。そうやって軽く傷つきながら、ゆっくり回復の一途をたどってる。


私はよく笑う方だと思う。よく笑うし、大体のことはなんとかなってきたし、失敗はものごとを成し遂げるためには必要なプロセスだと考える思考の癖も根底にはある。そんなに長い時間クヨクヨしたりもしなかった。でも、ちち、わたしは後悔しているよ。そしてこの後悔から立ち直りたいとも思っているよ。
こんな私も、私を構成する多くの姿の一つだとも思っているよ。


ちなみに、ゆりと私は父のお葬式をリモートで出席した。僧侶のご厚意で家族限定のライブカメラを提案してくれたのだ。
葬儀開始はカナダ時間の朝5時だった。朝8時半からの試合だったので、ゆりは寝たか寝てないかは分からないけど4時頃ベッドからむくっと起き上がって部屋の外へ出ていった。戻ってきたと思ったら手には2つのコーヒーを持っていた。ゆりと「献杯」と言ってコーヒーを飲みながら父の葬儀を見送った。
そのコーヒーが特大サイズだった。意図してかはわからないけど、私は一睡もしていないのでそのサイズが必要だった。きっとゆりにも必要だった。


父の葬儀の準備は母と姉と姉の夫がしてくれた。母はひとつリクエストをしていた。それは御詠歌さんに来ていただくこと。父が御詠歌が好きだったということをこの時はじめて知った。「まごころに生きる」という南こうせつさんの楽曲が詠れた。
はじめて聞いたこの曲を私はとても気に入ってすぐにダウンロードした。寝る前や車でよく聴いた。


日本に帰国しゆりの車で送ってもらうことがあった。エンジンがかかると同時に、ゆりの車で「まごころに生きる」が流れた。

あまりに姉妹で、ちょっと笑っちゃった。
「ほほえみひとつ、涙ひとつ。出会いも別れも抱きしめて、生きてる今をあいしていこう。」

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