吉田知那美のコラム Vol.16

Yoshida Chinami Column VOL.16

ハローワークに通っていた時の話

「カーリングという競技を知っていますか?」 と、日本のどこかで街頭インタビューをした場合、地域によってばらつきはあるかと思いますが現在ならきっと「知っている」と答える方がほとんどなのではと思っています。 長野五輪が開催された1998年まで時を戻すとどうでしょうか?きっと、「ボーリングじゃなくて?」と思う人がほとんどだったのではと想像します。 私は1998年、7歳の秋に日本カーリングの祖と呼ばれる小栗祐二さんに声をかけてもらいカーリングを始めました。同級生の女の子6人組でチーム名はROBINS。由来は和名でコルリと呼ばれる小さくて青いブルーロビンという野鳥。野鳥観察が趣味だった小栗さんがつけてくれたこの名前は26年経った今でもお気に入りです。

現在、北見市ではカーリングチームのサポートをしている、またはカーリング選手が所属しているという企業が私が把握しているだけでも約20社近くあります。こんなに多くの地元企業が北見市に拠点を置くカーリング選手たちの生活をサポートしてくださるようになったこと、またカーリングチームの1年間の活動サイクルの基盤である海外ツアー生活を理解しチームスポンサーとしてサポートしてくださるのは当たり前のことではありません。いくらカーリングのメッカ北見市だとしてもほんの十数年前までは、生活基盤を作り競技活動に専念するにはサッカーや野球、バレーボールなどのスポーツチームがすでに活動している前例があるような都会に出る、もしくは実業団でなければ難しい状況でした。そんな背景があるので現在こんなにもたくさんの地元企業がカーリング選手のサポートしてくれているというこの状況に絶対に忘れてはいけない恩と感謝があるのです。

実際のところ、私も2014年の春はハローワークに通っていました。

私が通っていたハローワークは網走刑務所がある通りを少し行った道沿いにあります。その時の私は、2ヶ月前までソチ五輪でプレーしていたこともあり「もしかしたらハローワークの人が私のこと知ってるかも・・知られてたら恥ずかしいな・・・」と思いながら自分で車を運転しながら行ったことを覚えています。ただそれ以上に「生きなきゃ」とも思っていたので最初こそ恥ずかしかったり不安な気持ちもありましたが、それ以降はただただ必死に通っていました。必死に通ったということは、全然雇っていただける会社が見つからなかったということです。働きたい職種があるとか、働き方に希望があるとか、選んでいたわけでなかったからこそ、「必要とされていない人間」と証明されているようでまち針でブスブスと刺されるような小さく細かな、でも確かな心の痛みを感じていました。当時22歳だった私が持ち合わせてる能力は普通運転免許のみ。それも運転歴3年の若葉マーク。カナダ留学し語学学校を卒業はしていますが最終学歴は網走南ヶ丘高等学校卒業。何度目からか正確には覚えていませんが次第に「そうだよね」と諦めのような達観のような振る舞いをしながら心の中ではずっと泣いているような状況が続きました。

しばらくは高校生の時にバイトさせてもらっていたカフェしゃべりたいのお手伝いもさせてもらったり、ハローワークに通いながら日本オリンピック委員会からご連絡をいただいた時はオリンピアンとしての活動などもしており、この時の私は自分のことを自虐的に「住所不定無職自称カーリング選手通称アスニート」と自己紹介していました。アスリートであり明日もニートである。何だか22歳が名乗るには味わい深すぎる通称だったなと思います。
そんな生活を続けながら5月中旬頃にロコ・ソラーレへ加入することが決まりました。しかしこの時もまだハローワーク通いやウェブの求人検索も並行して行っていました。 でも不思議と絶望感がなかったのはロコ・ソラーレでカーリングをするという新しい目標ができたことと、両親が一切何も聞かずに実家での生活を〝いつもと変わらない生活〟かのように振る舞ってくれたこと、それが自分自身を能無しと蔑みながらも人としての生活を保てた大きな理由だったと思います。 当時のロコ・ソラーレは5人の選手それぞれに競技環境が違いました。東海大学に通う妹の夕梨花、フルタイムで仕事をしている夕湖、元メンバーの馬渕さん、スポンサー企業所属契約選手の麻里ちゃん、アスニートの知那美。なんとも個性豊かな顔ぶれです。 基本的に私と麻里ちゃんはカーリングリンクが空いてる午前中に練習をしていました。夜は仕事が終わった夕湖と馬渕さんと、時間だけはたっぷりある私の3人で練習をし、週末や合宿時に夕梨花も合流しチーム練習を行いという日々でした。

そんな生活をしてほんの少し経ったある日、麻里ちゃんから一本の電話がありました。その電話は「ネッツトヨタ北見さんが一度面接をしてくれるそうだ」という内容でした。今まで一度も面接まで辿り着けなかったアスニートの私は会ってもらえるというだけで「受かった」くらいの勢いで心の中で喜んだことを覚えています。

ここはうろ覚えの不確かな記憶なのですが、1回目の面接は当時の会長と社長にお会いしお話しをするだけだったように記憶しています。私の記憶としてしっかりと残っているのは2回目の来社でした。

指定された日時にネッツトヨタ北見本店に伺い、受付で「吉田知那美と申します。何時からアポイントがあります。」と伝えると2階へ行くように言われ階段を登りました。

するとそこには記憶では約8名くらいのスーツを着た社員の方々が席についてすでに待ち構えていました。もうそれだけてドキドキです。そして私はここに座ってる方々は偉い人たちできっとこれが最終面接なんだと感じ取りました。そして一つ覚悟を決めました。もうここまで全部履歴書で落ちてきてるし、五輪とか日本選手権とかカーリング歴とか「今まで」の経歴が役に立ってこなかったんだから、もう今までのことじゃなくて「これからどうなる予定か」を伝えようと思い、私はネッツトヨタ北見の役員の皆さんの前で22歳実家寄生無職ロコ・ソラーレの等身大スピーチをしました。

「私は吉田知那美と言います。ソチ五輪を戦いましたが戦力外となり今年からロコ・ソラーレというチームでプレーすることになりました。今は経験も技術も何もありません。でも私が強い選手になることでロコ・ソラーレを強くすることはできると思っています。私が人としても選手としても成長すればロコ・ソラーレは勝てるようになると信じています!私はもう一度ロコ・ソラーレで日本代表のユニフォームを着ます!そしてネッツトヨタ北見さんの名前を背負い世界の舞台で戦いたいと思っています!!!」

一語一句は合っていないと思いますが、要約するとこんなスピーチをしました。

今思い返すと「22歳アスニートがだいぶ大きく出たもんだ」と正直冷や汗が滲んできます。でもそれまでの人生でこの場が間違いなく一番緊張した場で、そしてその緊張を超えるくらいの必死さで声を震わせながら挑んだ瞬間だったので、きっとこれからもこの時のことは忘れないと思います。

そして私が勝手にした決意表明後の現社長の言葉も一生忘れることはないと思います。

「私たちも一緒に戦います。」

現社長のその言葉をもって、私はネッツトヨタ北見所属、ロコ・ソラーレの吉田知那美となったのでした。

「応援しますよ」「サポートしましょう」「ぜひうちにいらっしゃい」などではなく、社長が22歳カーリング小娘にかけてくれた言葉は「一緒に戦います」だったのです。

その言葉通り、12年経った今も一緒に泣き、一緒に喜び、一緒に悔しがり一緒に戦ってくれています。

後日談なのですが、私をネッツトヨタ北見でサポートするという会議は満場一致の可決ではなくちゃんと反対意見もあったそうです。私が社員の立場であったとしても得体の知れない、しかも戦力外になった選手の雇用はあまりにギャンブルすぎると考えると思うのです。でもこの「反対した社員もいた」という事実は私にとってとても感謝すべきことでした。なぜなら、それがあったから「吉田知那美を雇用して良かったと思ってもらうには良い選手に成長して活躍するしかない。一生懸命私にできる仕事をするしかない。」と途切れることのないくらい高い外的モチベーションになったからです

私がロコ・ソラーレに加入した翌年にさっちゃんが加入しました。そのまた1年後に夕梨花が大学を卒業したのをきっかけにロコ・ソラーレの全選手はそれぞれに北見市内の企業所属になりました。それだけでもすごいことなのに、さらに所属4企業が協力し選手によって練習とトレーニング環境に差が生じないよう雇用形態を揃える競技環境の構築まで行ってくれました。

入社当時はまだ日本代表でもなく海外遠征も短期間だったのでフルタイム、もしくは午前勤務でしたが良い成績を収めるようになるごとにどんどんと出勤できる時間は少なくなってきました。

社員として会社で直接貢献できることができずに申し訳なく思っているという話を面談で何度かお話しさせていただいた時期に、「会社ホームページのリニューアルを機にコラム連載してみませんか?」と提案していただきました。原稿は世界中どの国にいても寄稿出来ます。時差があっても早朝でも夜でもシーズン中でもいつでも。与えていただいた大切な仕事であり、私の遺書でもある(コラムNo.15参照)このコラムも語彙力、構成力など成長していけるように頑張ります。

ネッツトヨタ北見に入社しロコ・ソラーレは3度の世界選手権と2度の五輪を経験しました。グランドスラムという世界最高峰の舞台を主戦場に戦えるようになってきました。なので、あの時勝手に宣誓したスピーチ内容を少々修正する必要があります。 「私は吉田知那美といいます。私はもっと強く逞しい選手になります。そしてまたロコ・ソラーレで日本代表のユニフォームを着ます。ネッツトヨタ北見の名前を背負い、世界一になります。」 宣言は簡単にできます。(冷や汗は滲みますが)ここからどれだけ頭の中のイメージを実行できるかです。毎日自分にワクワクするような努力を積み重ねていき、その過程を心の底から楽しみたいです。 長くなってしまいましたが、ハローワークに通っていたあの時の経験もあの時感じていた気持ちも、誰がなんと言おうと私の人生の財産です。正直に言えば恥ずかしいと思っていた時期もあるし、恥ずかしさを隠すために自虐的に笑い話にしていたこともあります。でも今は黒歴史ではなくプラチナ歴史です。驕らず、腐らず、感謝と敬意を忘れず、これからも北見市で戦います。一緒に戦うのはきっとすごく大変なので、ただただ見守ってくれているだけで嬉しいです。
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